まえがき

 子どものころ、物語をつくるひとは、とくべつな文字をつかえるのだと思っていました。
 大好きな本のなかの文章が、こんなにきらきらとして、自分の書く文章とまるでちがってみえるのは、きっと文字にひみつがあるからだと。そう思って、一日じゅう、好きな本の文字の書体を真似して書き写す練習をしたものです。そして次におもしろい本に出会うと、自分もこんな物語を書きたいと切望して、またひたすら文字を写す、その繰り返しでした。

 その書体のひとつひとつに、ちゃんと名前がついているのだと知ったのは大人になってからのことです。しかし、そのときにはすでにDTP化が進み、活版や写植の時代は終わりつつありました。印刷の工程は昔と大きく変わり、かつて私たちの身近にあった書体の多くは、おどろくほどの早さで、その生きる場所が失われています。

 けれど、美しい書体には、なつかしい香りや味覚と同じように、「今、ここ」ではない場所へ心を導いてくれるすばらしい効能があります。
 たとえば街の路地裏で、古い看板の文字をふと目にしたとき。
 旅先のホテルで、カフェのメニューをひらいたとき。
 忘れかけていたあの本を、夢中で読んでいたころの遠い記憶が、そこに描かれていた人生や物語とともに、一瞬でたたきおこされる——。

 私には、組版やタイポグラフィに関する専門的な知識があるわけではありません。装丁家のように、デザイン論を語ることもできません。
 ただ、書体と言葉の出会いから生まれる、滋味豊かな味わいを誰かに伝えたい。
 本のつくり手と読者のあいだにある、言葉にできない至福を、文字にうつしとりたい。
 そんな思いからつくったサイトです。ごく私的な、世界にひとつだけの書体見本帳になっていると思います。
 書体は、勿論、作家が言葉を生み出して初めて、選ばれるものですが、文字の表情にひきよせられて、めぐりあう言葉もきっとあると信じています。

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