Vol.31

ヨーグルトの文字

アニー・エルノー/堀 茂樹訳「シンプルな情熱」 早川書房、1993年

 この文字は、白い。

 文字の印象が「白」だなんて、妙なことをいう、と思われるかもしれない。

「白」は「無」をイメージさせる色でもあるけれど、この場合、味がしない、という意味では決してない。文字の背景にある白い部分が、線に隔てられることによって際立ち、よりいっそう映えるような感じ。

 私はその「白さ」が好きだ。何もないところに文字がかかれるということは、結局、その白さをいかように残すか、ということだともいえる。

 文字の白。線と線のあいだに透けてみえる白。

 それはヨーグルトの白さに、すこし似ている。乳清、と呼ばれる上澄みの部分に栄養があるのだと、だから残さずにすくって食べなさい、と、子どものころにいわれた。あの、淡泊で、ぽってりとした白さ。仄かに酸っぱい風味もする。

柴田亜美「南国少年パプワくん」 スクウェア・エニックス、2002年、1巻 5頁

 あのころ、とにかく印象的だったのは、この書体の滑らかさだ。生理的で、すべすべしたクリームみたい。

 書体に性別があるとしたら、間違いなく〈ナカフリー〉は女性だ。長いあいだそう信じて疑わなかったのだが、この書体は、前出の中村征宏氏が「ふだん妻がかいていた文字を、大きさや中心が揃うようにデッサンし直して」つくったものだという。

 あのきわめて男性的な〈ゴナ〉と、〈ナカフリー〉が、同じデザイナーの手によるものだ、というのはにわかに信じがたいけれど、そのエピソードを知った後では、すごく納得のいくことのようにも思える。

 というのは、〈ナカフリー〉の「女性らしさ」は、まったく媚びを含んでいないというか、どこか母性的な感じがするからだ。健やかで、シンプルで、やわらかい。

 つくづくユニークだなあと思うのは、書体のイメージが、ときに倒錯した状況で――もちろん計算された演出のもとに――言葉と結びつくことだ。そんなとき、文字は、得体の知れない可笑しみをもたらす。

高木 実「ジュニア地図帳こども日本の旅」 平凡社、1987年、24頁

〈ナカフリー〉は、手紙文でよくつかわれる写植書体である。

 手紙形式の文章には教科書体も好まれるけれど、〈ナカフリー〉は、教科書体よりかしこまっていなくて、人目につくことを想定していない感じというか、プライベートを直にのぞきみるような気配が漂う。

 でも、たとえば、謎の組織から届いた秘密文書とか、身に覚えのない果たし状(もらったことはないけど)とかには、この書体は到底似合わない。

 本を読んでいて、この文字でかかれた「手紙」が出てくると、私は、ああ、よく知っているひとからの手紙だ、と思う。名前をみなくてもわかる文字。

 どうしてだろう。

 実際のところ、自分の身近に、これと似た文字をかくひとはいないのに。それなのに、どういうわけか、私はこの文字に対して自然と好意をもっていたし、一緒に朝ごはんを食べる相手みたいな親しさを抱く。

安野モヨコ「働きマン」 講談社、2004年、 1巻 5頁

「働きマン」で〈ナカフリー〉がつかわれているシーンも私はすごく好きだ。

 初めて読んだとき、この台詞は手紙だ、と思った。どこにも届くはずのない、出されなかった手紙。

 そう感じたとき、自分とは別の世界に生きているはずだった登場人物たちは、すでに親しい、近しい存在になっていた。

 文字の印象が、限定されたなつかしさを呼び覚ますからかもしれない。

 そのひとの文字を知っている、と思えることほど、シンプルに心の距離をはかる基準もないと思う。


「あなたがかいた文字をみれば、私はすぐにわかります」


 そんなことを普段わざわざひとに伝えたことはないけれど、口に出してみると、まるで恋心をうちあけるみたいで恥ずかしい。

 他人の筆跡を思いだすだけでそうなのだから、好きなひとの文字を「まねする」のは、究極の愛情表現だよなあ。

 と、思うのですが、どうでしょう?

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