Vol.40

蕎麦の文字

向田邦子「あ・うん(向田邦子TV作品集9)」、大和書房、1987年

 昔から知ってはいるけれど、自分では一度も口にしたことのない言葉のひとつに「蕎麦をたぐる」という表現がある。

 きどった感じがして気恥ずかしいし、何より似合わない。漠然と男性語のような気がしていたのは、江戸っ子や噺家のイメージがあるからだろうか。

 でも、実を言うと、「蕎麦をたぐる女」にちょっと憧れる。

 蕎麦をたぐる女は、きっとお酒も強いにちがいない。夕方からひとりで蕎麦屋にでかけてもさまになり、長尻はしないが、隣り合わせに野暮な客がいればピシャリと言い放つ。「蕎麦は喉で味わうものよ」なんてね。


 見出し用のかな書体〈かな民友明朝〉でかかれた言葉も、「読む」というよりは「たぐる」という気分がしっくりくる。重みのある、ダイナミックな強い線。たくみな筆の運びには、交互に息を吸ったり、吐いたりするようなリズムがあって、文字を目で追うのではなく、言葉を手繰り寄せている感覚にとらわれる。

「芸術新潮」、新潮社、2001年12月号、目次

〈かな民友明朝〉は写研の写植書体の名前だれど、資料によると、そのルーツは、東京築地活版製造所で明治二十年頃につくられた初号活字にあるという。

「初号」というのは活字のいちばん大きなサイズのこと。活字制作の技術が中国から日本に伝わって以来、書道ではありえなかった「(活字のコマの)正方形の四角い枠のなかに文字をおさめる」ことと仮名の美しさを初めて両立させたのが〈築地体初号活字〉だった。

 この活字が民友社に提供され、後に写研やモリサワが写植書体の原字として採用することになる。さらに現在では〈游築初号かな〉というデジタルフォントも同じ字形をベースにしており、時代が変わっても脈々と受け継がれている貴重な書体のひとつだ。

中場利一「一生、遊んで暮らしたい」角川書店、1998年

 私自身はこの書体を古典として眺めたことはないけれど、つい引き比べてしまうのが、もうひとつの代表的な初号活字、〈秀英初号明朝〉である。

 私にとって〈秀英初号明朝〉が水のなかの世界みたいに静かで、超然とした印象であるのに対し、〈かな民友明朝〉でかかれた言葉は音のある世界、地上の世界だ。同じストイックでも、どこか人間くさいというか、道楽の気配が漂うというか、私財をなげうって楽しみごとをきわめたような気迫なのである。

 はたして、この書体のもとになった初号活字の制作者が何者なのか、それは残念ながらわかっていない。

 でもこの字をみていると、ひょっとしたら、あのヴァン・ゴッホのように、世間の評価や名声とは縁遠い、放蕩の限りをつくした人生だったのではないか。そんな荒唐無稽な想像までしてしまう。

「カッコつける」ということは「無理をする」ということである。

 中場利一のエッセイに、そんな言葉が書かれていた。その点では江戸と大阪も似たようなものだなと思う。「見栄をはる」ということ。

 その精神は、案外、あらゆるデザインの原点になっているのかもしれない。

 日本人の意地と誇りが、庶民の食卓を粋な舞台へと昇華させてしまったように。

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