Vol.33

ビスケットの文字

ナット・ヘントフ「ぼくらの国なんだぜ」 晶文社、1980年

ポケットの なかには ビスケットが ひとつ

ポケットを たたくと ビスケットは ふたつ

もひとつ たたくと ビスケットは みっつ

たたいてみるたび ビスケットは ふえる

そんな ふしぎな ポケットが ほしい

(まどみちお『ふしぎなポケット』)


〈石井中ゴシック〉はあの歌に似ている。

 いったいどこが似ているのか、どうしてそんなふうに感じるのか、わざわざ考えてみたことがなかったが、この書体の名前を知る以前からはっきりとそう思っていたし、だから私にとっては、比喩でもなんでもなく、ほんとうに「ビスケットの文字」だった。

 高級というわけじゃないけれど、心惹かれる洒落たパッケージ、きっちりと整列している堅実な様。よけいな甘みをくわえていない、保存食みたいなビスケット。


 もしも私に絶対音感があったなら、それを音楽で証明してみせるだろう、と考えることがある。

 雨だれの音や、ごはん茶碗を並べる音でオーケストラをやってのける名指揮者のように、文字から伝わってくるイメージをうつくしい音にして、みんなに聴かせてあげられるのに、と。


 でも残念ながら、私にはそんな音楽的才能はない。鼻歌をうたうのも、音楽をきくのも好きだけど、とにかく習い事全般を疎かにする子どもだったので、5年も習ったピアノは結局、バイエルさえものにならなかった(どうでもいいことだが、ピアノ教室へ行く途中の野原でへびいちごを摘むのが唯一の楽しみだったのを思いだした。田舎だなあ。)

 だから私にできるのは、歌を口ずさみながらポケットをたたくことくらいだ。

 これがリズムというものだと、いちばん最初に教えられた記憶。

よしながふみ「こどもの体温」新書館、1998年、31頁

 ポケットをたたくたびにビスケットの数が増えるのは、ポケットのなかでビスケットが割れるからだ、と人に聞いたことがある。

(この解釈には諸説あるようだけれど)そのとき私は、へえなるほど、といたく感心し、そういう意味で、この歌はやっぱり〈石井中ゴシック〉に似ていると思った。

 この文字でかかれた言葉が目に入ってくるときの感覚は、ビスケットの歯ごたえにそっくりだ。ビスケットが割れる一瞬にくわわる力の、弱くもなく、強くもない、ほんのちょっと、手先に意識が集中する感じ。

高野文子「うしろあたま/絶対安全剃刀」白泉社、1982 年、172頁

〈石井中ゴシック〉には、だから散文がよく似合う。

中学や高校のころ聴いていたCDの歌詞カードが〈石井中ゴシック〉でかかれているのをみると思わずぐっときてしまうのも、おそらく同じ気分によるものだろう。


 それで思いあたることは他にもあって、たとえば、高野文子の「絶対安全剃刀」に収められている「うしろあたま」という作品。淡々とした小気味いいモノローグを読んでいると、どこにも音は鳴っていないのに、いつの間にか歌詞のようにみえてきて、音楽を聴いているみたいにうっとりしてしまう。


 それは個人的な思い入れじゃないかといわれてしまうかもしれないし、事実その通りなのだが、どんなにポピュラーだと思われていることだって、実際はきわめて個人的な記憶の集合体であると思う。

 私は(そんなことをしたら洗濯のとき怒られるのがわかっているので)ポケットのなかに本物のビスケットを入れた試しはないけれど、それでも、「ポケットのなかにビスケットがひとつ」の状態を確かに知っている、と思えたり、それはきっと自分だけじゃない、と信じられるのは、言葉の意味がひとつなのではなく、たぶんリズムの力なのだ。

 長く愛されてきた書体にも、普遍的なリズムがある。身を委ねれば心躍る。

 言葉を奏でるたびに、ひとつずつ、記憶の断片がふえていく。

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